頑張るということ

今日はもう一つ。書ききれるかは分からないので日付は書かないでおきます。

 

インターンを始めてから「働く」ということを今まで以上に考えるようになりました。

どんな風に働くのか、どんな企業がいいのか、何を重視するのか。

考えは尽きません。

どうせ今年の冬には就活が始まるので、考えるだけは考えておこうかなと思ってます。

 

それと同じくらい考えるのは「家庭環境」と「自分の選択と努力」のこと。

東京都心、かつ逆学歴コンプレックスといっても過言ではない人がトップを務めているだけあってインターン先の塾には名だたる私立中学校所属の生徒が多い。私が地元で働いている塾とは生徒の勉強に対する態度に天と地ほどの差がある。

「勉強とはするもの」

かく言う私も基本のスタンスはこれで、その根底には間違いなく家庭環境がある。

こどもちゃれんじの付録で遊び、赤ペン先生の愛ある添削で育ったので「勉強」というものに対するハードルは低めで、両親には感謝しかない。

 

けれどそういった家庭環境による先天的な要因と今の私は地続きであってもイコールではないと思いたいのである、がなかなか上手くはいかない。

 

母とインターンの話をしている時に「私って結構色々頑張ったな、と思うんだよね」と言ってみた。小中は地元の公立校で、塾には行っていたけれど週に1, 2回程度。学校生活の8割は部活が占めているなか、高校は一応県内トップの公立高だったし大学も有名(かは怪しいが)国立に現役合格した身である。

勉強を当たり前にしてくれたことに感謝はしているけれど、その性質をきちんと活かすと選択したのは私だし、決めて勉強したのも私であって、性質はあくまできっかけに過ぎないと思っている。

けれど母は「そういうふうに育てたからね」(意訳)とにべもない返事。

結構こういうところのある家なので、私は私にいつまでたっても自信が持てないでいる。言い訳かもしれないけど。

 

私には、家庭環境=先天性の要因しかないのか?

私が頑張ったと思っていることは「頑張れるように育てた」故のこと?

あらゆるものは記憶もあいまいな頃の両親が作ったもので、選択と努力は私自身のものではないのか?

 

苦しいことのほうが圧倒的に多かった中高の部活をなんとか耐え抜いた結果のタフネスも、活字・言語好きが高じたちょっと自慢出来る語彙力も、勉強を頑張った結果の学歴も、全部「そう育てられた」から?

 

そうじゃない、と反論する言葉が見つからなくてずっと苦しい。

 

母は今学校に行けない子供たちの面倒を見る仕事をしている。

「皆に見られている、怖い」「テスト前になると頭痛で学校に行けない」

そういう子たちを母は「弱い」という。

学校に行けない、人間関係を構築できない、繊細過ぎる。

彼らが「弱い」のは現代社会においてどうしようもない事実だ。

けれど「弱さ」は罪ではないはずだし、「強さ」が正義なんてこともない。

強かろうが弱かろうが、生きていける方法を探して生きていくしかないのだ。

 

私はどちらかというと「強い」方だけど、私の周りには「弱い」方の人が大抵複数いる。

「弱いなぁ」とは思うけれど、言ったところで何にもならないし、彼らも弱くいたくて弱いわけじゃない。

彼らが弱さを免罪符にしない限り、私も強さを振りかざすような真似はしない。

 

「真面目なのが当たり前で色々頑張ってる夢佳は偉い!」てもっと言いたかったんだけど

でもそうすると、弱い夢佳の時とか、ちょっと不真面目になっちゃた時に、そっちの夢佳が否定されてる気分になったら嫌だなと

今の夢佳も偉いしすごしできればそのままでいてほしいけど、別に変わったからといって偉くないとか幻滅するとかではないから

 強い自分が好きで、強くありたいと背筋を伸ばしてきたら自分の弱さを突き付けられた時に揺らぎまくって。そんな時にもらった言葉です。

頑張れる、強い自分が好き。でも頑張れない時も私は私でしかない。どちらも愛していけたらいいと思っています。今は難しいけれど、こういってくれる人がそばにいるのは幸運です。作り上げた人間関係は紛れもなく私だけのものなので、大事に誇っていこうと思うのです。

 

頑張りがどこから生まれているのか分からなくても、今はとりあえず頑張ることしか出来ないので、日々心の赴くまま頑張ったり頑張らなかったりして生きていこうと思います。

 

どうか温かく見守っていただけると嬉しいです。