コンバーターの矜持

こんにちは、夢佳です。

GWも終わりまた忙しくなるぞ、と思っていたら諸事情により在宅勤務になったおかげで体力が余っている今日この頃です。

 

ということで、このブログを始める動機になった内容を綴ってみます。(下書きに2週間くらい温めてました)

 

テーマは「言葉」です。自分自身と向き合うためにいつかは言語化せねばと思っていたことです。

 

私は言葉が好きです。言語文化学部という専攻もそうだし、何より言葉や文章に触れるのが好きです。「読書好き」というには「本」を読む時間は少ないですが、某投稿サイトや名刺メーカーのSS、歌の歌詞カードを読むのも大好きで、こうして極偶にではありますが文章も書くので、活字に触れている時間は長いかなと思います。

「言葉」が好きなのです。

文豪と呼ばれる人たちの作品がどうにも苦手なこともあって、「言葉に貴賤はない」が持論です。

純文学もライトノベルも漫画も某投稿サイトも、広告のコピーライトも曲の歌詞も舞台作品のセリフも、全て私にとっては等しく愛すべき言葉です。

こんなだからか言葉に対する記憶力は結構良くて、一度読んだ作品は基本忘れないし、舞台も映画も一回見ればほぼ内容(セリフ起点)は覚えます。

 

じゃあなんで言語化、文章化してこなかったのか?

その答えは簡単で、私に出来るのは変換でしかないからです。


人の話をまとめたり要約したり、言い換えたりは得意、でも一から自分の意見を練っていくのは得意じゃなくて。創造は私には分不相応な仕事です。

 

私は変換機、コンバーターなのです。

何かを作り出すことはできない。けれど、言葉を集め知識を蓄えることで私という変換器の価値は高めていけて、「わたしが変換した」という付加価値が生まれるのでは?

創り出すことは出来なくても、情報過多な今の社会において、今あるものを理解し噛み砕き、整えて磨いて出力する変換器も結構必要な役割じゃないでしょうか。

たぶん私の出来ること、私の役割はそこにある。

 

英語が、外国語が好きなのも、日本語じゃ自分の気持ちや出会った事象を表すには力不足だから。強くてストレートな気持ちの変換には英語だし、繊細な表現は日本語がいい。

日本人はよく怒るのが下手だと言われる。それは、激情を変換するのに日本語は繊細すぎる言語だからだと思う。
かく言う私も怒るのはすごく苦手です。ちょっと違うか?あらゆることに怒ってはいるけれど、その怒りをエネルギーに変えたり、外に出すのが酷く苦手。噛み砕いて飲み込んで、溶けて消えるのを待つくらいしか出来ない。その噛み砕く手段のひとつが英語だったりする。
腹立つ!苛々する!マジなんなの!?
日本語だと罵倒の手段が多すぎて思考の前に単純な怒りの発露になりがちだけど、英語で同じことをする語彙力は私にないから、必然的に思考回路はシンプルになります。
負の感情も、日本語だと変に捏ねくり回して自分を納得させてしまうから、むしろ限られた語彙しかない英語の思考回路は私の気持ちを包み隠さず表してくれたりする。
限られた語彙しかないから、出てくる言葉も結論も気持ちもシンプルで真っ直ぐ。その真っ直ぐさが心地よかったりするのです。

 

でも結局、回りくどくて面倒臭い、けれど何よりも繊細な日本語が一番好きです。だから日本語も沢山集めるし吸収するし、日本語がフィルターの網目が1番細かくて精度が高いのは、当然かなぁと思います。


今はプログラミングを学んでいるけれど、作りたいもの、起こしたい事象の変換にプログラミングていうフィルターを使ってるだけです。プログラミング言語は別名「機械言語」だし(我々人間が使う言葉は自然発生なので「自然言語」といいます)。

 

私は言葉を愛しています。

言葉を学んで世界を変換します。変換のフィルターを磨いて、語彙力と知識の網目を細かくしていけば世界はもっと色々な側面を見せてくれると思うのです。

 

かくして、今日も私は「言葉」に想いを馳せるのです。