苦手な言葉その1「つらいなら逃げていい」

夢佳です。

 

一山超えた記念の晩酌のお供に、元気な時にしか書けないことを整理しようと思います。

今回は私の苦手な言葉その1「つらいなら逃げていい」について。

 

私は人に頼ったり甘えたりするのがすこぶる苦手&下手です。座右の銘「耐え忍ぶ」にもあるように、つらかろうがしんどかろうが、耐えて苦しんで自分で解決する以外に道はないと思っています。

今回はこの言葉をどうしても好きになれない、実感を持って受け入れられない理由を探しに、古傷をさらして乾かそうかと思います。

 

中学生の時の話

中学時代、そこそこに忙しい運動部に所属していました。男女合同部でしたが女子は私を入れて同級生が4人(女子は1つ上も1つ下も4人)、男子が20人弱というアンバランスさに加え、良くも悪くも男子贔屓の男性顧問というなんとも言い難い場所でした。

女子の先輩が内輪でゴタゴタしていたのを見ていたので「私たちは仲良くしようね」と大きな問題もなくやっていた私たちの間に起きた、突然の無視。標的は私でした。

 

ある日突然口をきいてくれなくなった3人に戸惑うばかりで。1週間ほどその状況が続いた頃耐えかねて、中学生だった私は母に相談したのです。

「普通にしてなさい、そのうち終わるから」

 母が言ってくれたのはそれだけでした。

(※随分昔の話で言葉の詳細は曖昧ですが、内容は確かです)

これが私のトラウマ①です。よく「いじめられていると親に話せる子は少ない」と聞きますが私もその典型で、この時は相当な勇気を振り絞っての決死の相談でした。

必死のSOSを、一番信頼していた人に振り払われたという記憶は、地味に大きな傷になりました。

しかし純粋だった夢佳少女は傷付きながらも母のアドバイスを実践し、事態はひと月とかからず終息したのでした。

ちなみにこの事件の原因はいまだにはっきりせず、忘れたころに三者三様の「○ちゃん(それぞれ違う人)が「夢佳無視しよう」て言ったの、ごめんね」を聞かされました。

知らんがな。

 

さらにこの話には続きがあって。

通常運転に戻った4人の中で和から離れていく人がいました。彼女(Y)は私たちを露骨に避けており、残された我々は困ったり心配したりしていました。そんな時、練習中にYが突然泣き出し叫んだのです。

「どうして私を無視するの!?」

 ???????

いやこっちのセリフ…

突然どうしたよ、と面喰いつつ泣きわめくYを宥めすかしても、我々3人が自分をのけ者にしているの一点張りで何もわからず。見かねた男子部員が顧問を呼び4人別室に連れていかれて事情聴取と相成りました。

そこで出された提案は「誰も悪くないけどYに誤解させた3人はとりあえず謝れ、それで水に流そう。」で。

この結論に私は一人全く納得いかなかったのです。

 

勝手に勘違いして活動を止めて騒ぎを起こして、でも謝るのはこっち?

悪意のかけらもなく、むしろずっと心配して気を揉んでいたのに悪者?

誰が原因にしろ、明確な悪意で私を無視した人達はお咎めなしどころか、事件すらなかったことになってるのに?

 

今思えば、中学生女子の人間関係なんてクソ面倒な案件を片付けるという意味であの時の顧問の提案は間違っていなかったと思います。

ですがその時の私に生まれたのは友情への不信と諦め、そして「母は助けてくれなかった、顧問もこの様子じゃ相談したところで何も解決しなかっただろうな」という落胆でした。「結局自分の身は自分で守れ、ということか」と「人に頼る」という選択肢への期待値を大きく下げる出来事でした。

 

大学2年の学祭の話

時を経て大学2年の秋、弊大学は2年生は学科単位で劇をやる、というしきたりがあり、色々あって私は学科の代表になっていました。

模擬店で売り上げ=お駄賃だった1年時とは違い出費しかない劇に皆のモチベーションが低いのは想定内、それでも何とか形にしようと学科内で一番仲の良かった子を副代表に据えて活動していました。

高校でバイタリティに溢れ文武両道を地で行く人に囲まれていた私にとって大、学の「自分が最優先」な同期たちはさながら宇宙人で、その中でどうしても苦手な子が2人ほどいました。

私の苦難は。そのうちの1人が監督という超重要かつ密に連絡を取り合わなければならないポジションについたことでした。

 

とにかく合わない、嫌いじゃないがやりにくくて堪らない、と副代表に相談したところ「私は普通に話せるから」と監督とのやり取りを一手に引き受けてくれました。その子はまたこうも言ってくれました。

「苦手なことは任せてくれていいよ、夢佳にだってやりたくないことからは逃げていいじゃん」

 救われました。「つらいなら逃げていい」最近流行りだしたこの言葉がようやく私にも適用された。今まで頑張ってきてよかったな、本当にそう思っていました。

 

けれど少し経った頃、副代表は体調を崩し授業にも劇の練習にも出られず、連絡すらおぼつかなくなりました。

苦手とか言ってる余裕はここで消え、結局何もかも全部自分でやる羽目になりました。

今回は一度逃げられたと思った分、手のひら返しされたダメージがものすごくて、こんな思いをするなら最初から逃げなければよかった、と心の底から後悔しました。

「逃げてはならない」「頼って裏切られる位なら始めから頼らない」

これが私のトラウマ②です。

 

去年の8月、長期留学頓挫と父の言葉の話

コロナ禍で、中学生の頃から夢見ていた長期留学が出発2か月前にして中止となりました。ショックを受けながらも「出来るだけ情報を集めて判断しなさい」という母の言葉通り、あらゆる所に連絡を取って情報を集め、毎日のように大きな決断を迫られていました。(あまりのプレッシャーと不安から「寝たら朝が来て、また決めなければならない」と、眠れなくなる程でした。)

この辛さから逃れたくて、早く決めてしまいたくて、私はその年の留学は諦め、1年の休学期間で身の振り方を考える、という結論を出しました。苦しいまま悩み続けるのではなく、諦めを選択して先のことを考えたかったのです。

私の決意を家長である父はこう評したのです。これがトラウマ③。

「それって逃げじゃない?夢佳は今まで逃げずに頑張ってきて偉いなと思ってきたけれど、今回は逃げるんだな。」

親にこう言われて、私は何と答えたらよかったのでしょうか?

確かに私は悩む辛さから逃げました。でも私にとってそれはとても前向きな選択で、誰に恥じることもない「戦略的撤退」だったのです。

でも「逃げない」ことが私の強みだと考えていた父にとって、今回の選択は人生の汚点になりかねないものなんでしょうね。

半年以上経ちますが、心の奥でずっと燻り続けている火種です。

 

まとめ

 「つらいなら逃げていい」

ここ数年、長期休みの最後辺りに図書館などが子供の逃げ場として発信したのをきっかけ(と私は勝手に思っている)に、顕在化して大きな流れのひとつとなったメッセージです。

これに助けられている人は実際沢山いるだろうし、私も無理して辛い思いをする場所に留まる必要なんてないと思っています。逃げたいなら逃げればいい。

でも私にとってはどうしようもなく綺麗事なのです。

逃げたくても逃がしてもらえなかった、逃げた先はもっと地獄だった、逃げたらため息をつかれた。

単に運が悪かったり私が気にしすぎだったり、幼かったり要因は色々あるはずですが、私にとって「逃げ」はもう絶対選べない最悪の選択肢です。

 

叶うなら、逃げていいよ、と言ってくれる誰かにそばにいて欲しい。

きっとそれすらも私には烏滸がましく許されない願いなのでしょうが。

 

暗くて長くて陰湿で草も生えん。でも割とこういう人です。

ずっと見ないふりしてきたこういう自分をちゃんと受け入れられるようになりたいです。

今日も明日もこれからも、常にセルフ背水の陣な夢佳でした。

明日は朝一で新エヴァ行ってきます。